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アムステルダムの街と運河の簡単な歴史

2015/04/14
(この記事は、ウィキペディアの記述などを元に構成しています)


400年を超える歴史をもつアムステルダムの運河は、街の象徴であり、かつ、文化的、歴史的に重要な価値があるのです。

水の都、アムステルダム。アムステルダムはオランダの首都です。もともとは辺鄙な漁村だったのですが、13世紀にアムステル川河口にダムが築かれ、アムステルダム発展の礎となっています。16世紀になると海運貿易の拠点として大いに発展をしました。

16世紀、ネーデルラント17州を支配していたスペイン王に対する反乱が起こります。反乱はやがて「八十年戦争」へと発展しました。この間、アムステルダムは独立派に組しています。1585年、南ネーデルラントのアントウェルペンがスペインのパルマ公に降伏しました。するとアントウェルペンのプロテスタント商人がアムステルダムへと続々と移住しはじめたのです。こうしてアムステルダムは、それまでのバルト海交易だけでなく、それまでアントウェルペンが支配していた地中海交易、新大陸交易、アジア交易を獲得しました。これによってアムステルダムは世界商業・金融の中心地になったのです。スペインから独立を果たしたオランダ共和国は宗教的寛容さで知られ、スペインやポルトガルからユダヤ人が、アントウェルペンから豪商が、フランスからユグノーが、安住の地を求めてアムステルダムにやって来はじめました。

17世紀はオランダ、アムステルダムの黄金時代です。17世紀初頭、アムステルダムは世界で最も裕福な都市になりました。アムステルダムの港は交易の要衝として、商業の中心地として発展します。1595年、アムステルダムの商人はコルネリス・ハウトマンの船団をアジアへと派遣し、船団はジャワ島から東方の物産を積んで帰国しました。これによって東方貿易ブームが起こります。しかしあまりにも過当競争となったために、1602年に東方貿易の独占権を持ったオランダ東インド会社(VOC)が設立されました。アムステルダムの港から出る商船は、北アメリカ大陸やアフリカ大陸を始め、現在のインドネシアやブラジルまで含めた広大なネットワークを築きました。アムステルダムの貿易商はオランダ東インド会社やオランダ西インド会社(WIC)の主要な地位を占めていました。当時のアムステルダムは、ヨーロッパで最も重要な交易市場であり、世界を牽引するファイナンシャル・センターだったのです。アムステルダム証券取引所は世界初の常設取引所でもありました。

へーレン運河、プリンセン運河、ケイザー運河といった運河が同心円状に建設され、アムステルダムの運河網が形を整えていったのもこの時代のことでした。こうしてアムステルダムは世界一の水運都市に成長します。

グラクテンゴルデル (grachtengordel)として知られる3つの運河(ヘーレン運河、ケイザー運河、プリンセン運河)は主として宅地造成のためのもので、一番外側のシンゲル運河は防衛と水利のために建造されました。半円状の運河群は相互につながっており、ヨルダーン地区ではビールなどの物資の運送にも使われる運河群が重なっています。また、本来防衛目的だった境界線のシンゲル運河も、住宅や商業発展の目的に転用されて今に至っているのです。そして運河群には100以上の橋が架かっているのです。
04:10 アムステルダムの運河(新版) | コメント(0) | トラックバック(0)
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